『ウェイン・ショーターの部屋』(http://www.bekkoame.ne.jp/~echika/wayne/wsindex.html)の別館です。


by Fee-fi-fo-fum

■ミシェル・マーサー『フットプリンツ 評伝ウェイン・ショーター』  (潮出版社)


 ウェイン・ショーターの評伝としては最初の本なのだが、なんだか全面的に賞賛はしたくない気分にさせられる本だ。
 ぼくの場合(というか、ほとんどの人にとってもそうだと思うが)ウェイン・ショーターに対する興味は彼が生み出した音楽という点にあって、彼がどんな人生を送ってこようが、どんな宗教を信じてようが、どんな人と親しかろうが、基本的にはどうでもいい。彼の音楽を理解する上で必要な程度書かれていればそれでいい。一方、彼の生み出した音楽に関してはできるだけ多くのことが知りたい。
 しかし、この本の作者の興味は、ぼくとはかなり違うところにあるようだ。どんな有名人と親しいか詳しく書いてあるし、とくに宗教関係のことはやたら詳しく書いてある。それでいて、ショーターの生み出してきたアルバムの数々については、ごく簡単にしか触れられてないものが多い。
 音楽活動についても、例えばサンタナとのツアーなど、べつに一章をさいて書くほどのものでもないだろうと思うところが詳しく書いてあって、もっと詳しく書いてほしい部分が書かれていない。
 もちろん評伝なんだから人生のアウトラインを書いていくものなんだろうが、もっとショーターの音楽の本質に切り込んでいく視点はあってほしいし、彼自身の音楽と直接関係のないことは抑えて書いていくくらいのバランス感覚がほしいと思う。
 作者の音楽に対する意見にもあまりうなずけない点が目立つ。
 とはいえ、否定する気にもなれない。
 とくに最初のあたりを読めば筆者のショーターに対するインタビューは困難を極めるものであったのは容易にわかるし、ショーターに過去のアルバムに対する解説を求めてもきちんと答えてなんてくれないだろうということもよくわかる。不充分とは思っても、よくここまで聞き出してくれたと感謝すべきなのかもしれない。
 それに、なんだかんだいっても、この本を読んで初めてわかったことも多い。例えばプラグド・ニッケルのライヴなど、どうしてあのような演奏になったのかは、この本を読んで初めてわかった。
 それと、改めて気づかされたのはショーターのクラシックに対する傾倒の深さだ。
 実はぼく自身、以前はほとんど聴かなかったクラシックを、最近になって聴きはじめているのだが、そういった耳で聴くと『Atlantis』以後のアルバムはむしろクラシックの流れで聴くべきアルバムではないかという気もしてきている。このへんの紹介文は書き直す必要がありそうだ。

 それにしても、長時間インタビューができたのなら、作者が理解できなくてもいいから、ショーターが言った言葉をそのまま書いくことをもっとしてほしかった。作者には理解できなくても、読者には理解できるショーターの言葉もあるはずだ。
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# by Fee-fi-fo-fum | 2009-06-20 06:39 | Wayne Shorter


(役に立たないジャズ入門・6)

■録音日という怪 


 ジャズを聴きはじめた頃は、いろいろ奇妙に思うところがあった。いままでロックやら他のポピュラー音楽を聴いてきた人間がジャズに出合ったときに感じるカルチャー・ショックみたいなものだ。
 そういった点を少し書かせてもらう。

 ぼくがジャズを聴きはじめて単純に驚いたことの一つは、アルバムに「録音日」というものが書いてあるということだった。
 つまり、ぼくがそれまで聴いていたロックなどのポピュラー音楽はアルバムを一枚作るのには数カ月かけるのが普通だった。そして一人のミュージシャン、一つのバンドがアルバムを出す場合、一年に一枚も出ればむしろ順調で、一枚出るまでに数年かかることもめずらしくはない。
 しかしジャズの場合、一枚のアルバムの録音日として○年○月○日と日付まで書いてあり、さらには一日でアルバム2〜3枚を録音してしまう場合さえあり、一人のジャズマンが一年で何枚ものリーダー作をリリースしている場合も多い。
 正直、それでだいじょうぶなんだろうかと当時のぼくは思った。そんなに安易にアルバムを作ってしまっていいもんだろうか、ジャズってそんなに安易な音楽なんだろうか……と。
 でも、現在ではジャズのように一日でアルバム一枚を録音してしまう録音方法のほうが、むしろ正しいんじゃないかとおもっている。
 その理由を説明してみよう。

 その前に、まず前置きしておきたいのは、上のような感想を抱いたのはぼくがジャズを聴く前にロックなどのポピュラー音楽を聴いていたからだろう。つまり、それまでクラシックを聴いていたのだったら、そんな感想は抱かなかっただろう。なぜならクラシックでも、一日でアルバム一枚を録音するような録音方法は、むしろ普通だからだ。
 そしてロックだってR&Bだって、時代を遡っていけば昔はそういう録音方法をしていたのである。
 それは一発録り、ワン・テイクで録音してしまう方法だ。
 つまり、録音日前に楽曲をあらかじめ用意しておき、録音当日にスタジオ入りしたらバンドの全員が同時にスタンバイし、普段ライヴで演奏しているように一曲を演奏し、それを録音したとしたら、例えば5分の曲を録音するのに5分しかかからない。もちろん誰かが演奏をミスしたり、イマイチの演奏だったら録り直しということになるだろう。しかしバンド全員が高い演奏力をもち、誰もミスせずに一発で最高の演奏ができたとしたら、録り直しもほとんど必要ではなく、用意した曲を次々に録音していくことができる。アルバムの一枚分なんて数時間あれば簡単に録音できる計算になるわけだ。
 では逆に、現在のポピュラー音楽では、何でアルバム一枚を作るのに何カ月もかかったりするんだろうか。
 それは、誤解されることを恐れずに非常に単純化して言えば、ワン・テイクのライヴと同じ状況では必ずしも思った通りに完璧な自分の音楽を演奏ができるわけではない演奏者が、自分の実力以上の作品を作り出そうとするからではないか。というより、果たして音楽を生みだしているのが演奏者かどうかわからないというのが、現在のポピュラー音楽の作り方だろう。
 つまり、1960年代末か70年代に入ったあたりからスタジオの録音技術が一気に向上した。バンドによって演奏された音楽を録音するだけではなく、バンドの各メンバーの演奏を別々に録音して、自由なバランスで組み合わせることによってバンド・サウンドを生み出すこともできるようになった。そうなると、誰かがミスすれば全員で最初からやり直さねばならなかった以前の録音方法に比べて、一人だけがやり直せばいいし、あるいはミスした箇所だけを修正することも可能になった。あるいは、必ずしも歌が上手くないボーカリストに同じ曲を何十回も歌わせて、それぞれの録音のいい所だけを切って繋ぎ合わせて一つの曲にするなど、ツギハギで音楽を作ることも可能になった。そうなると、そのようなツギハギ作業を行って最終的に音楽を完成させるプロデューサーと呼ばれる人が音楽作りの中心になり、演奏家はというと、そのプロデューサーにツギハギをするための素材を提供する人となってきている……というのが現在のポピュラー音楽の作り方の主流ではないか。つまりユニットの顔となるボーカリストなどはルックスや声が良ければそれでよく、たとえまともに歌えなくたって、優秀なプロデューサーが付けばなんとかなる……というのは、現在のポピュラー音楽では常識ではないか。
 もちろん現在のポピュラー音楽の演奏者がみんなまともに演奏できない者ばかりだなどと言うつもりはない。しかし、たとえ演奏者がきちんと演奏ができる技術を持っていたとしても、その演奏が作品化される間にはプロデューサーの力が大きく入り込んでいるのが現在のポピュラー音楽の録音方法の主流ではないか。
 そして現在のポピュラー音楽でアルバム作りに何カ月もかかるのは、そうやって各楽器ごとに時には何十回も録音を繰り返し、そうして録音されたもののなかから良いものを選択して、絶妙のバランスで組み合わせることによって、スタジオでサウンドを作り出していく……という作業に時間がかかるからではないだろうか。だから、ジャズやクラシックのように、みんなで一緒に演奏して、その演奏を録音するだけ、という録音方法よりはるかに時間がかかるのではないだろうか。
 では、そのような高度なスタジオ作業によって音楽を作り出すポピュラー音楽の録音方法は優れたものであり、ジャズやクラシックのような一発録りで一日でアルバム一枚を録音してしまう録音方法は安易なものなのだろうか。
 決してそんなことは無いというのが、現在のぼくの考えだ。
 まず、ジャズやクラシックのようなワン・テイクで録音してしまう方法は決して安易ではない。なぜなら、ワン・テイクでミスなく全曲を演奏でき、しかも自分の音楽を100%表現できるような技術と表現力を身につけた演奏者というのは、その演奏力を身につけるためにどれだけの練習と経験を積み重ねてきたかを考えなければならない。つまり、ジャズのミュージシャンが一日でアルバム一枚を録音したとしても、それは音楽的才能に恵まれた演奏者が膨大な練習をして演奏力を磨いてきた後の、たった一日なのである。たった一日の録音で長く聴きつがれるような優れたアルバムが録音された裏には、その演奏力を身につけるまでにどれだけの時間が費やされてきたかを考えなければならない。
 対して、現在のポピュラー音楽のような録音方法なら、たとえば街でタレント性のあるルックスと声のいい子を見つけてきたら、まともにボーカル・レッスンすら受けたことがない子だったとしても、プロデューサーの手腕さえ優秀ならすぐに、それなりに聴けるアルバムを作ることができる。たしかに録音そのものには時間はかかるだろうが、安易というならどちらのアルバム作りが安易なのかは言うまでもない。
 では、そんなスタジオ機能をフルに使わなければきちんとした演奏ができない者ではなく、充分な実力のある演奏者が数カ月かけてアルバムを作った場合はどうだろう。つまり、一日でもアルバム一枚を録音できるようなミュージシャンが、あえて数カ月かけてアルバム作りをした場合、それは一日で録音するよりも、より時間をかけたぶんだけ優れたアルバムが作れるのだろうか……。
 かならずしもそうとも言えないというのが、現在のぼくの考えだ。
 というのは。もしそんな時間をかけた高度なスタジオ作業がポピュラー音楽の質を向上させるものだとしたら、スタジオの技術が飛躍的に向上していった1970年代半ばあたりから、ポピュラー音楽の質も飛躍的に向上し、優れたアルバムが次々に生まれていなければおかしい。そして、例えば同じロックでも、高度なスタジオ技術によって生まれた70年代後半以後のロック・バンドのアルバムの素晴らしさに対して、スタジオの録音技術が未発達だった60年代の、例えばビートルズやストーンズなどのアルバムは、質が低くて現在では聴けたもんじゃないという評価になって、人気が下落していなければおかしいだろう。
 では、そうなっているだろうか? ぼくが見たところ、なっていないどころか現実はむしろ逆ではないかと思う。60年代からせいぜい70年代前半頃のロックは永遠といっていい人気を保持する一方で、70年代後半以後は現在でも聴かれるような名盤の数はむしろ減っていて、一時期人気を呼んだアルバムでも時期が過ぎると、むしろ60年代の古いロックより先に人気が下落していく傾向がある気がする。それはスタジオでの録音方法だけが原因とはいえないが、少なくともスタジオ録音の技術が向上したぶんほど、アルバムの質が飛躍的に向上はしてはいない。むしろ高度な録音技術によってツギハギされ、計算されたサウンドで高い完成度に達した作品は、むしろ早めに聴き飽きてしまい、長い生命力を保持できないという傾向があることがハッキリしてきている気がする。
 なんでそうなのかはわからないのだけど、大抵のばあい音楽というものは、時間をかけてツギハギしながら傷のない完成度の高い作品を作り出したというものより、充分な実力をもった演奏者が一度きりの演奏で生み出したもののほうが、長く聴き続けられる魅力にあふれたものになるようだ。
 時間をかけたスタジオでのツギハギ作業で長く聴きつづけられる音楽を生み出すことは、一度の演奏で長く聴きつづけられる音楽を生み出すことよりも、かえって難しい事なんじゃないかと、現在では思っている。
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# by Fee-fi-fo-fum | 2009-06-13 01:40 | 役に立たないJazz入門
(役に立たないジャズ入門・5)

■ぼくがジャズを聴きはじめた頃3 〜 チャーリー・パーカー


 セロニアス・モンクの次にぼくがハマッたのはチャーリー・パーカーだった。
 パーカーに近付いていくのはある程度時間がかかった。パーカーのジャズは初心者には難解だと思う。といっても頭で考えた難解さではなく、身体のノリがパーカーの音楽についていけないのだ。だから自転車に乗れない人間が乗れるようになるかんじで、一度身体がついていけるようになれば、あとは難解でもなんでもなくなる難解さなのだが。それでも初心者にパーカーをいきなり勧めるのは無茶だと思う。
 何十年もジャズを聴いているはずのジャズ評論家でも、ほんとうはパーカーがわからないんじゃないかと思う文章に出合うことさえあるのだから。

 チャーリー・パーカーに興味を持ちはじめたきっかけは、多くのジャズ本でパーカーが特別扱いされていたからだ。ジャズの最高峰とか、そういった神格化されたかんじで。
 そうなると、とりあえず一度聴いてみたい気にはなる。気に入るかどうかはわからないが、一度聴いてみないとはじまらないというかんじだ。
 そしてそんなジャズ本を見ると、パーカーの最高傑作とはサヴォイとダイヤルだと書かれていた。サヴォイもダイヤルも40年代後半にパーカーが録音していたレーベル名で、その時代に録音されてSP盤としてリリースされていた演奏が現在では編集されてCDとしてリリースされているわけだ。でもサヴォイとダイヤルの二つがオススメというのは、紹介のされかたとしてけっこうわかりやすい。それでとりあえずサヴォイを聴いてみたのだが、どこが良いのかさっぱりわからなかった。40年代のSP盤からの復刻のせいで音質が悪く、演奏も騒がしいだけとしか聴こえなかった。
 いいと思えないのなら聴いても仕方がない。でも、多くの人が最高峰だというパーカーを自分が理解できないというのも、なんか気分がわるい。
 そこで、とりあえずあとダイヤルだけは聴いてみようかと思った。それでいいと思わなければ、パーカーは自分には関係のない人だと判断し、ジャズ本などでどんなにベタ褒めされてようと一切無視することにしようと思った。
 と思ってダイヤルを聴いた。サヴォイとダイヤルの違うところは、サヴォイはバラードが収録されてないのに対して、ダイヤルのほうはあるというところだ。ぼくはダイヤルでもアップテンポのナンバーはサヴォイと同じ感想で、つまり騒がしいだけとしか感じられなかったのだが、バラードはいいと思った。ついていけたわけだ。
 その頃ぼくはウォークマンを持っていて、満員電車の中や街を歩きながら音楽を聴いていた。ということでパーカーのダイヤルもウォークマンで聴くことになった。といっても聴くのはバラードばかりだったが。
 満員電車のなかでウォークマンで音楽を聴くということは、かなり集中して音楽を聴くことになる。部屋で聴くときは「ながら聴き」になりがちだが、満員電車のなかでは他に何もできないので、一音一音を聴き逃さないように集中して聴くことになる。ぼくはもともと飽きっぽい性格だから、そんなふうに集中して聴くと、わりとすぐにその音楽に飽きてしまい、そう何度も聴き返したくはならない。だからぼくはウォークマンの中身はほぼ毎日とりかえて、毎日新しいアルバムを聴いていた。
 しかしパーカーをそうやって集中して聴いていると、おかしな事がおこった。他の音楽はすぐに飽きてしまうのに、パーカーの演奏は何度聴いても飽きないのだ。それどころか聴き返すごとに良くなっていく。ぼくのウォークマンはパーカーが入ったままになり、毎日パーカーを聴き続けることになった。
 そうなるとバラード以外の曲も聴いてみたくなる。するとアップテンポのナンバーは相変わらず騒がしいだけとしか聴こえなかったが、バラードを繰り返し聴いた効果なのか、ミディアムテンポのナンバーも良いと思うようになった。そしてバラードとミディアムテンポを毎日繰り返し聴くうちに、ついにアップテンポのナンバーも良いと感じるようになった。
 そうして、べつにそんなつもりもなかったのだが、ぼくは徐々に鍛えられてパーカーについていけるようになったのである。
 そしてその後、しばらくの間は他のミュージシャンのCDはまったく聴かなくなり、チャーリー・パーカーのみを聴き続けることになった。

 一度パーカーが理解できると、パーカーをベタ褒めするジャズ・ファンや評論家の言うことも、体感的に理解できるようになる。正直、いまではぼくも一度もパーカーにハマッた経験が無いというジャズ・ファン、ジャズ評論家は信用できない気がする。ハマるというのは、一定期間チャーリー・パーカーだけを聴き続けるということだ。これはパーカーが理解できる人ならわかると思うが、パーカーの魅力を理解できてしまうと、必然的にそういう聴きかたになってしまう。
 なぜかといえば、パーカーの音楽を理解できるようになるということは、パーカーの聴き方をおぼえるということだ。パーカーの音楽は聴く方も緊張感をもって、真剣勝負で聴かないと理解できないところがある。ところが、パーカーを聴く時のような聴き方で他の音楽を聴くと、ほとんどの音楽はタルくて聴けたもんじゃないものに聴こえるのだ。だから、必然的にチャーリー・パーカーに夢中になっている間はチャーリー・パーカーだけを聴き続けることになってしまう。
 ぼくはやがてチャーリー・パーカー以外のジャズも聴きはじめることになるが、それはパーカーを聴くときとは違う聴きかたを始めたからだ。つまり、なにもいつもパーカーを聴くときのように集中して聴かなくたって、BGMを聴くように聴いてもいいんじゃないかとおもって、他の音楽も聴きはじめたのだ。

 さて、とはいえ、現在ではぼくはチャーリー・パーカーの信者のように、パーカーばかりがジャズの最高峰だとは思っていない。
 たしかにパーカーと同じことをした者でパーカーを超えたジャズマンはいないと思う。でも、パーカーがしなかったこと、やり残したことがある。
 例えば、パーカーの即興演奏は最後までモノローグ型である。これに対して対話型の即興演奏や、集団即興という方法がパーカーがやり残したこととしてある。
 さらに、パーカーの即興演奏はコード進行に基づいている。これにコード進行に基づかない即興演奏というのがパーカーがやり残したこととしてある。それにパーカーなど40年代のジャズの場合、使用しているコードが和声的に単純な気がする。たとえばウェイン・ショーターの後にパーカーを聴くと、クラシックで例えればワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の後でモーツァルトを聴いたときのような、素直で単純な和声でやっているなと感じるところがある。つまり、ジャズをもっと複雑な和声でおこなうということも、パーカーがやり残したこととしてあるだろう。
 さらに、パーカーの音楽は編曲的には単純だ。オーケストラと共演した『ウィズ・ストリングス』の演奏もオーケストラ編曲は平凡であり、パーカー自身が編曲したものではない。ということで、ジャズとクラシック的な複雑で奥深い編曲性との融合という点も、ジャズのさらなる方向性として考えられる。
 そして、パーカー以後のジャズとは、そのような方向性を進んだミュージシャンたちによって発展していったと思う。


 そんなわけで、ぼくはジャズを聴きはじめたかなり最初のほうでセロニアス・モンクやチャーリー・パーカーといった、かなりジャズの核心の部分からジャズに入っていった。個人的にはそれでよかったと思っている。でも、これが万人に勧められるジャズの入門法かというと、そうでもない気がする。
 実際ぼく自身も、とくにパーカーは最初はまったく理解できず苦労したし、モンクも普通は入門者向けではないミュージシャンだという。入門者に勧めるなら、もっとわかりやすく親しみやすいところから勧めたほうがいい気もする。
 どうも入門者・初心者にジャズを紹介する難しさというのは、たぶんそのへんに理由がありそうな気がする。
 つまり、マイルス・デイヴィスのようにポップスやロックにわりと近い発想でジャズを演奏するミュージシャンのアルバムは、ポップスやロックと近い感覚で聴くことができるので、それまでポップスやロックを聴いていたリスナーには親しみやすくわかりやすい。しかしジャズ独特の魅力という点ではむしろ乏しい面があるので、つまりずっとマイルスを聴いていたのでは、いつまでたってもジャズの本当の魅力がわからずに、ポップスやロックのような感覚でジャズを聴いているだけという結果になってしまいそうな気もする。実際そうなってる人も多く見かける。
 対して、ジャズ特有の魅力を持つミュージシャンの場合、その魅力がわかるようになれば、ジャズ特有の魅力を理解する近道にもなるだろう。しかしそういったミュージシャンはポップスやロックを聴くような価値観で聴いていたのでは本当の魅力がわからない場合が多いので、つまり、ハードルが高くなってしまう。
 いったい入門者・初心者にどっちを勧めればいいのかというのは迷うところであり、ほんとうのところは、その入門する人がどんな性格で何を求めてジャズを聴こうとしているのかによって、勧めるアルバムも違うんだと思う。
 たとえば、それまでロックを聴いていたリスナーがジャズを聴きはじめる場合、フュージョンを好む人が多いそうだ。それはフュージョンならサウンドもリズムもロックに近いので、それまでのロックを聴いていたときと近い感覚で聴けるからなんだろう。
 しかしぼくはそれまでロックを聴いていたのに、ジャズを聴きはじめた当初はフュージョンなど聴かずにアコースティック・ジャズを中心に聴きまくっていた。それはぼくがロックを聴き飽きてきたので、あたらしい何かを発見したくてジャズを聴きはじめたからだろう。だからロックと似たサウンドやリズムをもったフュージョンより、いままで聴いたことがないサウンドやリズムをもった伝統的なアコースティック・ジャズのほうが興味の中心になったわけだ。
 同じようにロックを聴いていた人間がジャズを聴きはじめる場合でも、このように今までと同じ感覚で聴けるものを求めて聴くのか、いままでとは違うものが聴きたくて聴き始めるのかによって、聴くべきアルバムが違ってくる。
 もちろん、例えば疲れて家に帰ってきて、コーヒーかワインを飲みながらBGMとしてかける音楽を求めてジャズを聴きたいとおもう人もいれば、ノリノリで聴ける熱い黒人音楽としてのジャズを聴きたいという人もいるだろう。当然勧めるべきアルバムは違ってくる。
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# by Fee-fi-fo-fum | 2009-05-25 01:08 | 役に立たないJazz入門
(役に立たないジャズ入門・4)

■ぼくがジャズを聴きはじめた頃2 〜 セロニアス・モンク



 ぼくがジャズを聴き始めた頃の話を続ける。

 そんな訳でジャズを聴きはじめたぼくは、なんだかわからないながらも、限られた予算内でできるだけいろんなものを聴いてみたいと思い、レンタル店や中古屋などで安いCDを見つけては手あたり次第に聴いてみていた。
 そんななかでぼくがジャズを聴き始めて最初にハマッたのはセロニアス・モンクだった。
 最初に聴いたCDは、単に中古屋で安かったという理由で、チャーリー・ラウズ入りのクインテットのアルバムだ。ラウズ入りのモンクはジャズ本ではまず取り上げられないが、当時のぼくはとにかく安い予算でできるだけたくさんの有名ジャズマンの演奏を聴いてみたいと思っていたから、安さだけで選んだわけだ。結果的にはそれが正解だった。はじめにラウズ入りのクインテットを聴いたことで、ぼくはすんなりとモンクの音楽が理解できたと思う。ぼくは現在でも、モンクのアルバムをどれか聴いてみたいというジャズ初心者がいたとしたら、ジャズ本で多くの評論家が勧めるいくつものアルバムを差し置いて、ラウズ入りのクインテットか、ジョニー・グリフィンの入った二枚(『イン・アクション』と『ミステリオーソ』)を勧める。
 さて、当時のぼくはなぜモンクにハマッたのか。それはモンクの音楽にたいする考え方というのが、ぼくがそれまで聴いていた音楽とはまるで違っていたので、新発見だったからだ。
 モンクの場合もビル・エヴァンスと同じく、演奏者どうしの対話というのが音楽の中心になっている。モンクの場合はビル・エヴァンスのようにピアノ〜ベース〜ドラムの三者間での対話でなく、フロントのホーン奏者を交えた対話となる。そして対話性という点でビル・エヴァンスより徹底していて、モンクは現在進行形で続いていく対話こそが音楽であると考え、それを完成した一個の作品にすることを目指さない。例えばモンクは演奏家のミスを許容する。ミスしたらやり直して傷のない作品にしようとはしない。そこに演奏者どうしの濃密な音楽的対話が成立していればミスがあったってかまわない、ミスも含めて音楽だという考え方だ。むしろミスを恐れ、完璧な演奏を目指して小さくまとまってしまうことを拒否する。そうして完成を目指して集束していくのではなく、続いていく対話から生まれ広がっていくものが音楽だと考えている。
 そもそもクラシックからポップス、ロックなどに至るまで、それまでぼくが知っていのタイプの音楽は、作編曲された全体像があって、その枠のなかで演奏者が演奏していくものだった。
 対してジャズ、とくにモンクなど本来のジャズの魅力をもったジャズマンの演奏するジャズというのは、ジャズ的なルールに基づいたインプロヴィゼイションがむしろすべてであり、作品としての全体像なんていうものは演奏した結果としてたまたま出来上がったものに過ぎないという考え方をする。作品として完成されたものになることも目指さない。
 そういった、いままで聴いていた音楽とはまったく違った価値観をもった音楽がぼくには新鮮であり、このようなモンクの考え方こそがジャズの精神のような気がして夢中になって聴いていたわけだ。

 もっともすべてのジャズマンがモンクのような考え方をしているわけではない。例えばマイルス・デイヴィスはずっと普通のポップ・ミュージックに近い価値観でジャズを演奏しているのがわる。
 例えば「ing」四部作の頃のマイルスはシナトラが好きだったらしく、50年代アメリカン・ポップスの編曲性をジャズにとりいれ、曲目もシナトラが歌ったスタンダードを多くとりあげている。だからこの時期のマイルスのジャズはコンパクトによくまとまっていて、わかりやすく、聴きやすい。50年代アメリカン・ポップスの延長みたいな感覚で聴ける。
 また、後の『Bitches Brew』以後のエレクトリック路線のサウンドにしても、同時代のロックに親しんでいればむしろ親しみやすいサウンドだ。じっさいジャズを聴きはじめた頃のぼくは既にジミ・ヘンドリックスやらプログレやらを聴きまくっていたので、エレクトリック・マイルスのサウンドはそれまで聴いていたロックに似たサウンドに聴こえて新鮮味がなく感じ、むしろ伝統的なアコースティック・ジャズのほうがいままで聴いたことがなかったサウンドだったもので新鮮に感じていた。
 それはサウンドや編曲性、リズムなどがポップスやロックに近いというだけのことではなくて、そのような編曲性にコントロールされたサウンド作りを音楽の魅力とする考え方、そして革新的なサウンドを作りだしていくことで新しい音楽を作りだしていこうとする考え方そのものが、ポップスやロックなどの考え方と近いのである。だから、ジャズを聴きはじめた保守的な人間はマイルスにハマることが多いのだが、そのぶんマイルスはモンクに比べると、ジャズ特有の魅力には乏しい。

 さて、しかしモンクに関してもジャズ本で紹介されるアルバムには疑問の連続だった。もしぼくが最初からジャズ本を頼りにモンクを聴きはじめたとしたら、たぶんモンクを理解するのはかなり遅れただろう。
 ぼくはモンクの音楽の中心はホーン奏者との対話性にあるので、まず聴くべきはホーン入りのバンドで、対話性に満ちた演奏を繰り広げたアルバムだと思う。ホーンの数は、最初は一本がいいと思う。なぜならホーンの数が増えればその分一枚のアルバムあたりのモンク自身のソロ・スペースが減るわけで、しかし最初に聴く時はモンク自身の演奏もじっくり聴いてみたいのが人情というものだろう。そして、ワン・ホーン編成でリラックスしたムードで対話性にあふれた演奏を繰り広げたアルバムを選ぶとすれば、ラウズ入りの諸作か、グリフィン入りの2枚がまず思い浮かぶ。たぶんそのへんから聴いていくのがモンクの音楽に近付いていく一番の道ではないかとぼくは思う。
 しかし、ジャズ本でよく紹介されているモンクのアルバムはというと、ソロやトリオ、あるいは『ブリリアント・コーナーズ』など多管で完成度の高いアルバムが多い。なかにはモンクを聴きたい時はマイルスの『モダン・ジャズ・ジャイアンツ』を聴くなどというものさえ読んだことがある。しかしそれはあまりにモンクの音楽の本質とは離れたセレクトではないか。
 モンクの音楽の中心はホーン奏者との対話性であるから、ソロやトリオでそれが味わえるわけがない。そしてホーン奏者であってもマイルス・デイヴィスという人は対話的な即興演奏が出来ないモノローグ型の人であり、そのため自分のソロ・パートではバックでモンクが演奏することを拒否した。そんな録音を聴いたってモンクの音楽がわかるわけない。そしてモンクには対話性のほかに編曲によって自分の音楽を築いていく部分もあり、『ブリリアント・コーナーズ』はその路線で最も完成度の高い傑作とは言える。しかし、きっちりと完璧に作られすぎているために、モンクの本質である対話性が味わいづらい欠点がある。
 しかし、『モダン・ジャズ・ジャイアンツ』は問題外としても、なぜジャズ本はソロやトリオ、『ブリリアント・コーナーズ』を紹介したがるのだろうか。それはモンクの作品のなかから特に完成度の高い傑作を紹介しようとするからではないか。確かにソロやトリオのアルバムのなかにはジャズ・ピアニストとしてのモンクの真骨頂をとらえた傑作といえるアルバムがあるし、『ブリリアント・コーナーズ』も完成度の高い作品ではある。そしてラウズやグリフィンの入ったクインテットのアルバムが、そんなに完成度の高い傑作かというと、実はぼくも必ずしもそうとは思わない。とくにラウズ入りのアルバムなんて、たくさんありすぎて、どれを紹介したらいいのかわからない。全部聴き比べたわけでもないんで、どれが一番初心者に最適かなんてわからない。けれどもモンクの音楽の本質を理解するのにはアルバムが傑作である必要はないと言いたい。
 つまり、モンクを紹介するのに、まず完成度の高い傑作から紹介しようとする態度は、傷のない高い完成度の作品をつくることを目標とせず、ミスをも許容して続いていく現在進行形の対話こそが自らのジャズだとしたモンクの本質をとらえてない紹介のしかたではないか。つまりはモンクが示しているジャズの精神を理解せず、ポップソングや、あるいはクラシックを聴くのと同じ尺度でモンクを計ってアルバム選びをした結果ではないか。
 ぼくがモンクにハマッた理由はむしろそんな尺度をモンクが破壊し、ジャズとはポップソングやクラシックとは同じ価値観で計れない音楽であることをモンクが示してくれたからだ。しかし、ポップソングやクラシックの尺度でモンクを紹介してしまうジャズ本の作者というのは、結局のところモンクを本質的に理解できてないのではないか。
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# by Fee-fi-fo-fum | 2009-05-25 01:06 | 役に立たないJazz入門
(役に立たないジャズ入門・3)


■ぼくがジャズを聴きはじめた頃1 〜 やたらにたくさん聴かせたがることの功罪


 ぼくがジャズを聴きはじめた頃の話を再開する。
 先に書いたようなわけで、ぼくが本格的にジャズを聴きはじめたきっかけは、ビル・エヴァンスの『Waitz for Debby』からだ。このアルバムはジャズ入門に最適なアルバムとして定評があるし、ぼくも同意見だ。ぼくはこの『Waitz for Debby』とかソニー・ロリンズの『サクスフォン・コロッサス』あたりが、ジャズ本の推薦がめずらしく的を射ていた貴重な例だと思っている。
 では、『Waitz for Debby』のどこが良いのだろうか。雰囲気がいいとか、ジャケットがいいとか、いろいろいう人がいるが、ぼくの場合いちばん感心したのは演奏者どうしの対話によって音楽が生まれ、展開していくという点だった。
 というのも、ぼくはそれまでにいろいろなタイプのロックを聴いていたので、演奏者のインプロヴィゼイションというのもロックで聴いたことがあった。つまり、ジャズを聴く以前にジミ・ヘンドリックスもエリック・クラプトンも聴きまくっていたわけである。
 しかしぼくがそれまで聴いていたロックにおけるインプロヴィゼイションというのは、バックバンドの演奏にのってソロ奏者がインプロヴィゼイションを繰り広げるという、いわゆるモノローグ型のものだった。そしてそれはマイルスも同じだった。だからマイルスのジャズはぼくにとって、実はそれほど大きな新発見ではなかったのである。
 しかしビル・エヴァンスのように、たった三人の演奏者が入り乱れるように対話し、その対話のなかから音楽が生まれ、展開していくインプロヴィゼイションというのは聴いたことがなかった。それだけにぼくにとってビル・エヴァンスは新発見であり、聴きはじめた頃はこの人はマイルスよりずっと上だと思った。そのぼくの判断が正しかったがどうかはさておく。
 さて、ではそのままビル・エヴァンスにハマり、聴きまくったかというと、そうはならなかった。
 というのは、それはビル・エヴァンスのアルバムは、一枚聴いてしまえばあとはだいたい似たようなものばかりだとわかってきたからだ。つまりこの人はピアノ・トリオによる演奏を得意とし、アルバムはほとんどピアノ・トリオばかりで、演奏方法もそう大きな変化があるわけでもない。もちろん微細な違いはあるし、そういった差を聴いていくのが楽しいという人もいるだろう。あるいは、それほど大きな差はなかったとしてもビル・エヴァンスのアルバムはどれも聴いていて飽きないという人もいるだろう。でもぼくはジャズを聴きはじめたばかりであり、どうせなら同じようなものを聴き続けるより、もっといろいろ聴いてみたかったわけだ。
 そんなわけでビル・エヴァンスを端緒として、今度はいろいろなジャズマンのアルバムを聴きはじめた。一度ニアミスをしたままになっていたマイルス・デイヴィスも再度聴き始めて、今度はちゃんとおいしいところを見つけて聴いていけたし、その他にもいろいろなジャズマンのアルバムを聴いた。


 その頃感じていた疑問点を書きたい。
 そんなわけでぼくはいろんなタイプのジャズを聴いてみたいと思い、しかし周囲にジャズに詳しい人はいなかったので、また本を頼りにどんなジャズマンを聴いたらいいのか調べながら聴いていった。
 しかし、正直かなり困惑した。それはジャズ本には確かに多くのジャズマンが紹介されているものの、ほんとに膨大な数のジャズマンやアルバムが並べられて紹介されているので、どこから聴いたらいいのかわからなかったからだ。いったい入門者・初心者にいきなり膨大な量のアルバムを勧めてどうしようというのかと思う。
 例えばいきなり100人くらいのジャズマンのアルバムを紹介し「最低これだけ聴けばジャズをかじったと言えるだろう」などと書いたものも見たことがある。もしそれが本当だとすれば、ぼくだっていまだにジャズをかじっているとも言えない。
 実際、聴く必要なんてない。
 たとえばロック関係の本で、チャック・ベリーからストーンズからプログレからパンクからデス・メタルやスラッシュ・メタルやらのアルバムを何百枚も紹介し「これだけ聴いておけばロックをかじったと言える」などと書いてある本を見たら、かなり不気味に思うだろう。そして、本当にそんな様々なロックのすべてを並行して聴いている者がいたとしたら、それは少なくともフツーのファンじゃないことはわかるだろう。むしろ本当にロックを楽しんで聴いているのか疑われる。
 ジャズだって同じことだ。例えばジャズ本にフリージャズの演奏者数名とその代表作としてアルバムが数枚づつ紹介されていたとしよう。もしそのうち一枚を聴いて、どうもフリージャズというのは自分に合いそうもない、自分が聴きたい音楽と違うと感じたとしたら、とりあえず他のフリージャズ系のアルバムは紹介されていても聴かなくていい。もちろん合わないのはその一枚だけで、他のアルバムを聴いたらフリージャズも好きになるという可能性もないことはない。でも、とりあえず後回しにして、後で興味が湧いてきたらそのとき聴けばいい。そういうもんだろう。
 好みによる選択というのは必ずあるものであり、べつに好きでもないものをジャンルの全体像を知るために聴く必要なんてない。
 ジャズ入門者だった頃のぼくは、入門者にいきなりこんなにたくさんのアルバムを勧める本というのは、著者が自分の豊富な知識を自慢したいだけの本なんじゃないかとも思えていた。

 けれども、ジャズを聴いているうちに、ジャズ批評家がそういう方向に走る気持ちに共感できる点もあることがわかってきた。
 それはビッグネームばかりをありがたがる俗物根性への批判だろう。
 とかく大衆というのは実質よりも名声をありがたがるものだ。ビッグネームだというとわけもわからずにありがたがるが、無名なミュージシャンには見向きせず聴いてみようともしない傾向がある。
 しかし、ビッグネームの作品が本当に優れたものか、無名なミュージシャンが本当に劣ってるのかは、実はわからない。
 なぜなら、音楽業界の側もそんな大衆の俗物根性をよく知っているから、あるミュージシャンを売り出したかったら、まず莫大な宣伝費をかけてでもそのミュージシャンを有名にしてしまい、その名声によって作品を売るという商法をとるからだ。というわけで、有名人ばかりをありがたがる大衆は業界が売りたがっているビッグネームをありがたがって買いつづけ、実は優れた作品をつくりながら、運悪く商業主義に乗れなかったミュージシャンは不遇をかこって無視され続けるという現象がおこる。
 もちろんビッグネームの名声のすべてがそういった商業主義によって作られたものではない。実力を伴ったビッグネームもいる。そして、かつては実力を伴ってビッグネームにのし上がった人間が堕落し、もはやビッグネームと呼ぶに足る音楽表現ができなくなっても、名声だけはビッグネームとしてカリスマ性だけ持ちつづけたという例もある。
 そして、そんな商業主義だってかならずしも悪いとはいえない。とにかくスターを作り出して、大衆の耳をそこに向けさせれば、ファンの裾野は広がるからだ。クラシックの分野でいえばカラヤンなどが行ったのはそういうことではないだろうか。行き過ぎた商業主義に毀誉褒貶が相半ばした人物だが、カラヤンのおかげでクラシック・ファンの裾野が広がったということも多分事実だろう。問題はたんに有名だからとカラヤンを聴いていた大衆を、他の演奏家にも耳を向けさせ、真のクラシック・ファンにできるかどうかということだ。
 ジャズの分野で、そういったジャズの大衆化に成功した人物とえば、例えばマイルス・デイヴィスがいる。つねに時代の流行に合わせてサウンドを変化させ、優秀なミュージシャンを次々にバンドに引きいれてバンドの演奏レベルを上げ、それをしっかりとビジネスに結びつけていくプロデューサー的能力はたいしたものだった。もちろんそれによってジャズを聴くファンが増えるのであれば、マイルスの成し遂げたジャズの大衆化も、それ自体批判すべきことではない。
 でも、ジャズの入門者のなかには、マイルスとかコルトレーン、あるいはビル・エヴァンスなどといった有名人だけをありがたがって聴き、他は聴かない。自分の耳で音楽を判断しようとしない、俗物根性だけでジャズを聴く者も多いようだ。これは音楽をたのしむのとはかなり遠い行為だろう。
 有名だからといってありがたがるのではなく、有名無名をとわずにいろいろ聴いてみて、最後は自分の耳で判断するのが本来の在り方だろう。そして良心的な批評家なら、そうするように勧めるのがスジだとはいえる。
 しかし、むしろ逆にそんな大衆の俗物根性にすりよって、ビッグネームの提灯持ちを続けることだけで食っていこうとする批評家も多数いるからややこしくなる。なかにはマイルスだけ聴いていればジャズのすべてが理解できるなどという大嘘を平気で書いた本さえある。(実際はマイルスだけ聴いてたってジャズの全体像がわかるわけがない。フリージャズもソウル・ジャズももちろんスウィング・ジャズも聴けない。集団即興はおろか、対話的な即興演奏さえマイルスはできなかった。また本格的に編曲に取り組んだこともない)
 だから、そんな有名人ばかりありがたがる大衆の俗物根性や、それをむしろ煽っているロクでもない批評家を批判することには共感できる。それは正しいスジだと思う。
 しかし、膨大な数のアルバムをただただ紹介しているジャズ本のすべてがそこまで考えてそうしているとも思えないのも事実だ。
 音楽というものは基本的に好きなものを自分のペースで聴いていけばいいのであり、無理にたくさんのアルバムを聴く必要はない。
 ビッグネームばかりありがたがる俗物根性を批判するなら、まずこのへんから聴いてみて、この辺が好きならばこの人も聴いてみたほうがいい……などと、入門者にとってわかりやすい指針を示すべきなんじゃないだろうか?
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# by Fee-fi-fo-fum | 2009-05-25 01:04 | 役に立たないJazz入門